百均でつい買っちゃった知恵の輪を外そうと、金属の曲がりくねった棒をガチャガチャやっていたら安西先生がスルメを齧りながらやって来て、猿の真似ですかとか言ってきたから顔面に知恵の輪をぶつけてやったら上手い具合にスルメに引っ掛けて受け止められた。自分はオットセイの真似をしてるじゃん。先生はスルメを全部口に入れて知恵の輪を自分の手に落とすと、くちゃくちゃ噛みながら数秒で鎖状になっていた物を二つのリング状の物に変えてしまい、また鎖にして、今度は素手でまっすぐの棒二つにしてしまった。ふん、ゴリラの真似も上手いね。不貞腐れたくなった僕は椅子ごと半回転して背中を向けたんだけど安西先生の腕が頭上から被さってきて、内肘辺りで首を引っ掛け椅子を倒しながら無理やり立ち上がらされた。苦しいので腕を外そうとしたのにさっきの知恵の輪よりも外れなくて若干死にかけながら引きずられ、先生が座ってから膝の上に安定して座らされてようやくまともに息が出来た。安西先生は相変わらず僕の眼前やや上部で金属棒を曲げたり捻じったり、金属疲労が心配になるくらい弄んでいる。することもなくメタリックなうねうねをぼんやり見ていると、二本だった棒が二つの輪になって、そこで唐突に動きが止まった。また早々に飽きたのかなと輪っか二つに手を伸ばして気が付いたけど、あれ?繋ぎ目が無い。それはつるりんと一周していて、ただ曲げただけには見えなくて不思議に思い先生の顔を振り仰ぐと、マジシャンがよくやる笑い方でこっちを見ていた。じゃあこれはマジックなのかなあ。するとまた二つの輪っかを取り上げられて、安西先生の右手の中に握り込まれ、開いた時には一つの大きな輪っかになっていた。繋ぎ目もやっぱりなくて今度こそ不気味になった僕はその輪っかに触らない。嫌な顔をしていた僕に気付いたのか、先生はタネをばらしてくれた。それは手品でもなんでもなく、ましてや力尽くで曲げたのでもなく、空間というか、そういうものを捻じ曲げて作ったんだそうだ。だから繋ぎ目が無いのだと言われたけどよくわかんない。わかるのは安西先生は人間じゃなくてしかも気持ちが悪いってことくらいだと口に出しかけて、僕まで繋ぎ目のない輪っかにされたら嫌だから止めた。のに心を読まれたらしくて鼻を摘ままれたけど、にこにこ機嫌は良いままで、楽しそうにトポロジーだか何だかよく解らない学術用語っぽいものをむにゃむにゃ言って、君は元から輪っかですと口の中に指を突っ込んできたから吐きそうになる。手がでかいと指も長いってことをもうちょっと考えて欲しい。胃がひっくり返るかと思ったと抗議をすると、何故か何かを思い付いた顔をして黙り込む。そして僕を膝から下ろし、机に立ったまま向かいコピー用紙に三色ボールペンで単純だけど曲がりくねった線を何本もうねらせて、脇目も振らずに、きっかり十枚の紙を埋め尽くした。それは後半へ行くにつれて線が入り組んでいたので、一番簡単そうな最初の一枚を見ると僕の頭でも解るくらいの単純な図形が幾つかあった。なんとなく僕は数式を思い出す。数字が一つもなく訳の解らない記号と英字だけで出来ている不気味な数式。文系の僕には無縁だけど、前に何かでそんな数式を見たことがあって、まるで悪魔を呼び出す魔方陣だと思ったのをふと思い出した。コピー用紙から顔を上げると驚くくらい間近に安西先生の顔があって、そしてそのお綺麗な顔が悪魔的に微笑んでいたものだから飛び退ろうとしたのに動けない。身体が動かないんじゃなくて、まるで後ろに壁があるように行き詰まりだった。君の行動についての次元を一次元にしましたと言う安西先生はその言葉で僕が怖がると思っていたように見えたけれど、その言葉の指すところが分からない僕はただただ困惑するだけだったので、この文系めとつまらなそうに呟く安西先生にそんな義理も無い筈なのに申し訳なくなる。でもそれは本当にしなくても良い反省だったようで、先生はまた楽しそうな顔をすると君はチューブですと言い出した。はあ?と聞き返したようなそうでないようなものが口を突いて出たら、待ってましたとばかりに長口上が始まった。曰く、僕は口から肛門までの消化器官によって筒状と定義することが出来、その筒の内と外とを無くしてしまったら、もっと可愛くなるだろう。可愛いの定義が解らないと言い返したらそれは文系の領分で理系は数式に対する愛や欲情を許されているのだなんだと本当もう、訳の解らない話をし始めて、もういいや。いやよくない。既に安西先生の悪魔の手が首を掴んでる。メビウスの帯を知っているかと僕の襟足後れ毛を指先で弄りながら問い掛けてきて、僕は延命のために一生懸命思い出して答えた。確か、裏と表が無いテープのことで、一回捩じってから端と端を糊でくっつけたら出来る、変なやつ。そう言ってみたら大体合っていたらしく、頭を撫でて誉めてくれたけど全然嬉しくない。それをずっと凄くすると、裏と表ではなく、内と外の区別が無いクラインの壺というものになるんですよと先生は言った。僕はさっきのコピー用紙に書かれていた図形を思い出す。その中に壺なんてなかった。矢印が幾つか引かれたチューブはあったけど。でも安西先生は足元に落ちていた一枚目のコピー用紙を拾い上げ、これが二次元で三次元的に描き表したクラインの壺だと僕の顔に近づける。なんでそんな風にしなくちゃいけないのか解らない感じにチューブを無闇に曲げて端同士をくっつけられた変な図形が、クラインの壺らしいけれど、文系の僕にはどうしてただ単純にくるんと一回転させて輪っかにしてしまわないのかが解らなかった。さっきの安西先生が曲げた輪っかみたいに、綺麗に丸めたら良いのに。でもたぶん、その複雑で一見意味の解らない曲げ伸ばしは、解る人には必要な手順なんだろう。まるで悪魔を呼び出すための儀式みたいに。そして安西先生は書き散らかした設計図の算式通りに、次元を捻じ曲げる手で持ってチューブの僕をうねうね螺旋回し捏ね回し始め、僕は次元を捻子曲げられているせいでどこも裂けたりせずにグニャグニャとゴムチューブみたいに曲がってくねってひっくり返って最後に入口と出口を繋ぎ目無しにつるんと貼りあわせられても、狂った次元の中で今もこうして生きている。気の弱い人が見たら発狂しそうなこの姿だけれど、安西先生は満足そうに毎日僕を使って飲み物を飲む。クラインの壺は内と外が無いのに、その身に何かを溜めていられる不思議な壺だから、紅茶にワイン、コーヒーにオレンジジュース、僕はそれらをちゃぷちゃぷ言わせて端の無い世界で終わらない命を壺として過ごしていくのだ。
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