悲劇の夜が連日続く館の一室、二人の人間が無感情なまでに落ち着き払って対面している。彼等は屋敷で二人だけの客人であり、肉親を失った悲しみに取り乱すことは無いのだが、昨夜屋敷の主が死んだ部屋にいるとは思えない程の冷静さで、それは度胸が座っているのか、それともそれ以外の理由があるのかは、恐らくお互いにも解かっていないだろう。先に口を開いたのは年嵩の方だった。

「まず、最初の夜の話をしようか」

青年と呼ぶにはまだ少し若過ぎる、少年と呼ぶには歳が過ぎる彼は頷いた。男をじっと見詰めて動かないまま、続きを促す様に瞬きをするだけで、ただ静かに聞いている。

「一番目の御婦人は、毒入りの紅茶を飲んで死んだ。状況から見て、紅茶自体は彼女が手ずから淹れたものだったね。茶器にも、茶葉にも、手が触れる場所全てにも、どこにも毒は見付からなかった。ただ、彼女の化粧ポーチからカプセル入りの毒が見付かっている」

今度の彼は頷かない。彼が聞きたかったこととは別のことを男が話したのかもしれないが、特に質問をする様子もない。さあ犯人は解かるかいとの男の言葉にも、殆ど無視に近い態度で聞き流す。不遜にも見える態度に男は微笑み話を変えた。

「二番目と三番目の恋人達は、頭が砕けて中庭で見付かった。位置から見て、よく逢引していたというテラスから落ちたと見える。そして四番目の彼は、拳銃だ。そして昨日は五番目の、高名なこの一族の頭である氏が」
「先生」

堪えかねた、という程の感情を篭めずに彼が漸く口を開く。男は教師の様に微笑み、手を伸べてその先を進める。

「先生は、もう犯人をご存知なのでしょう」
「ああ、そうだ。君はどうだい?」

彼は又もや押し黙る。先程より少し眉を寄せ、何かが気に入らないようだ。それは男が右目の義眼を冗談に使う時と同じ顔なので、男は小さく笑う。

「君は僕の一番弟子だ。そうだね?」
「はい、先生」
「いつもと同じだよ。この事件は全て君の目の前で起こった。ならば、真相が解る筈だ」

男はそう言って大袈裟に両腕を広げてみせる。目の前でとは言っても、殺害現場を目撃した訳ではない。つまり、これは一種の暴論であったが、同時に男の信条でもあった。すぐ傍に居たのだから解る筈だとこれまでも彼を急き立てていたし、その言葉に違わず幾つも出くわした事件を解明していたのだから。それを幾度目かに受けた彼は、また幾度目かに眉を寄せる。だが、それは真相が解らないから悩んでいるのではなく――寧ろ逆なのかも知れない。

「言って御覧、君の推理を。いや、犯人の名前を」

そんな苦悩を知ってか知らずか、男は尚も答えを急かす。まるで死に急ぐかのようなその性急さにむずがって首を振り、解りませんと声を絞り出す。

「…君が言わないのなら、僕が言おう。この事件の犯人は」

男の言葉はそこで止まる。予期していたのか、唐突さは無い。目の前にナイフが突きつけられていても、まるで動じない。彼はポケットから取り出したナイフを師に向けていた。

「先生、先生がこれ以上馬鹿なことをなさるおつもりなら、私にも考えがあります」
「ほら見たまえ、やはり解っていたんじゃないか」
「どうして、こんな」
「理由?簡単だよ、彼は僕の目を売っていなければ、あの時死んでいる筈だったのさ。少し死ぬのが遅れただけだ。そして彼が死んでいれば今頃この屋敷に居なかった、彼等もね」

男が義眼を外して床に放り捨てながら言う。その床を転がる硝子の目玉に刹那の気を奪われたから、彼はその隙を突かれ事も無げに叩き落されたナイフに一瞬気付けず、驚いた様な呆気にとられた様な顔で息を呑み、ナイフを持っていた筈の右手を庇うかの如く胸に引き寄せて唇を噛む。

「君は賢い子だったね。連れて来たのは失敗だったよ。長年組み上げた計画の、たった一つのミスだ。まさか、僕以外に探偵がいるだなんて思わなかった」
「認めて頂けたのが、この事件でなければ喜びました」
「君はもう助手じゃない、立派な探偵だよ。胸を張ると良い」
「嫌です、先生、私は…」

今度は男が彼の言葉を遮り、少しだけ大儀そうに立ち上がる。決して大きくはないその体にどうしてか気圧され、彼はよろめいて後退る。深く冷たい片目に見据えられ、体は竦んで動かない。

「しかし、甘い。まだまだ甘い。優しい子だが、それが命取りになるよ。さあ、言って御覧、犯人は誰だ?」

泣き出しそうな彼に詰め寄り、執拗に、嗜虐的な程に、男は犯人の名を問う。術を無くして身を縮める彼の元へ男の大きな両手がゆっくりと持ち上げられ、捕まえようと迫り来る。それを避けることも出来ずに、彼はただ怯えた目で師を見詰め、唇を震わせて先生と囁く。いよいよという時に漸く目を閉じ、来るだろう苦痛を覚悟したが。それはとても暖かく裏切られる。

「…本当は君に、知られたくはなかった。もし君が気付かなければ、僕はこの先も君と…」

男は苦く、優しく、笑って彼を抱き締める。薄い背中をあやすように叩くのだが、その手で却って彼の涙は零れ落ちてしまう。襟元がすっかり濡れてしまってから、名残惜しげに彼を離し言い聞かせた。

「もう逃げなさい。僕はここで彼等と共に果てるが、君を殺すには忍びない。直に発火装置が作動するだろう。時間が無い、行き給え」
「先生、どうして?まだやり直せる筈でしょう?直ぐに屋敷の人を避難させて、それで」
「おためごかしだよ。復讐は無意味だなんて、本気で言っていると思っていたんだね」
「先生お願いですから」
「行くんだ。僕の手で君を殺させないでくれ」

そして、轟音が響く。屋敷全体が揺れる程の爆発はどこからだったのか。少なくとも、生き残りの住人達を幾らか殺してしまう場所ではあったらしく、悲鳴と喚きが煤の混じった熱風と共に流れてきた。それでもまだ縋ろうとする彼を強引に戸口へ引き立て、煙も火も回らない道順を指示する。一緒にと伸ばされた手を一度握り、直ぐに放して、男は彼の背中を押した。それで漸く諦めたのか、彼は涙を拭って師を振り仰ぎ、ぺこりと頭を下げてから、身を翻し駆け出そうとしたのだが。

「ああ、待ちなさい。最後に一つだけ」

やっと固めた決意をあっさり崩す、この状況には聊か不似合いな、のんびりとした呼び止め。同じく不似合いな呆れた顔で彼は振り返るが、口元は諦めたように薄っすら笑っている

「この期に及んで、先生らしいです。何の御用ですか?」
「大事なことさ。決別の儀式だよ。言い給え、犯人の名前は?」

燃え盛る火が凍りついたと思えた。それ程までに、男は弟子の眼に射抜かれていた。冷たく、硬質な、虚実を許さぬ断罪の眼。だからこそ師は不敵に笑い、自分の育て上げた探偵の完璧さに喩えようもない満足感を覚えながら、彼の唇が形取る名を見た。
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