「高屋敷さーん」
「はーい?」
「高屋敷さん、今忙しいですか?」
「忙しいって言うか…中山さんが中庭で日光浴したいって言ってるから、車椅子出しに行く途中だよ」
「じゃあ私が代わりますよ!」
「佐々木さんが?どうして?」
「あ、…ごめんなさい、先に言うこと忘れちゃってました」
「?」
「あのですね、高屋敷さんのお友達だって方が来られてるんです」
「友達?なんで今、仕事場に?」
「さあ…でも二年ぶりに帰ってきたって仰ってましたし、ちょっとくらいお話ししてきたらどうですか?」
「二年?二年って言ってた?」
「え?あ、はい、そう聞きましたけど」
「……うん、少し話してくる。ごめんね仕事任せちゃって」
「いいえー、ごゆっくり。屋上にいらっしゃいますよ」


養老院の屋上は、解放されていても人がいない。屋上に登る手段は建物外部に設置された螺旋階段を五階分上がるしかないため、洗濯物を干す為にすら使っていなかった。高屋敷がこの螺旋階段を使うのも、ここに就職して初めての事だ。仕事柄体力はついているが、さすがに息を切らせてぐるぐると回りながら登る。手摺りに頼りながらも足を上げる勢いは落ちず、どころか焦れった気に眉を寄せて残りの一階分を駆け上がった

開ける視界の隅に、人影が揺らぐ。

「…久しぶりですねぇ、高屋敷君?」
「安西先生」

柵にもたれて待ち構えていたのは、高屋敷の予想通りの人物。安西は風に髪を乱しながら、千年変わらないような微笑みを浮かべて手招いた。

「二年ぶりだね。今回は割と短い放浪かな、最高は四年だっけ?…今度は何処に行ってたの?」

安西の元へ歩み寄りながら高屋敷は言う。何でもない口調であるが、僅かばかり逸らした視線は小さな怒りの顕れらしい。その怒りに気付いているのかいないのか、安西が昔と変わらぬ飄々とした体でしれっと返した。

「始めはインドでガンジャを吹かしに。次はイタリアにパスタの茹で方を習いに。その次は十九世紀のイギリスで爵位を貰いに。そのまた次は七百年前のアフリカで死者を蘇らせる歌と踊りを私以外が知らないよう、それを知る者を皆殺しに」

高屋敷が溜め息を吐いた。

「嘘か本当か知らないけど、まるでナントカってペテン師だね」
「ほう?それは時を越えたと言われるファウスト博士?カリオストロ伯爵?アイレスタークロウリー?」
「知らないったら!」

顔を上げて、あと少し力が籠もれば叱責になる拒否をした。そうしてからまた溜め息を吐き、更に一歩歩み寄り、まじまじと安西を見て責める声で言う。

「そんなにあちこちウロついて、少しは疲れてると思ったのに…」

恨みがましい睨みを効かせて続ける。

「白髪の一本も増えてない、皺だって一筋も見当たらない。ねえ、一体なんだってそんななのさ!?」

安西が一つ瞬きをした。その容貌は些かの衰えのない、高屋敷が学生だった頃のまま。高屋敷は返事を待たずに口を開く。

「僕が大人になった当て付けなの?友達って、佐々木さんに言ったんだってね。そうだね、僕ももう安西先生と同年代に見える二十代の後半だよ、と言うか来年三十路、おっさんの域!それなら先生は再来年で四十になるもう紛うことなきおっさんでしょう?なのに、その格好は何なのさ?!」

昔の彼ならば泣きだしているだろう声色だが、今の彼はただ不機嫌な顔で責めるだけ。高屋敷は善かれ悪しかれ確かに年を取っているけれど、安西は高屋敷の言う通り、凍り付いた様に年を取っていなかった。それは彼が昔から持っていた人外の能力の一つなのかも知れない。けれどそうであっても、高屋敷はこうして腹を立てただろう。
自分が声を荒げても、柵にもたれたまま何も言わずただこちらを見る安西に焦れ、高屋敷はまた一歩近付いた。高屋敷の背は大学の卒業後に幾らか伸びていたから、先程の距離では安西と視線を合わせるのに上を向く必要はなかった。しかしこの距離では、見上げねば前髪に半ば隠れた安西の目が覗けない。高屋敷は首を上向けて安西の顔を見ようとする素振りをしたが、何を思ったか困った顔で俯いてしまった。安西は相変わらず黙ったまま、ゆっくりとした瞬きを繰り返し、考えの伺えない目で高屋敷を眺めている。

風が一陣強く吹き、二人の間を引き裂く様に通り抜けた。

それが切っ掛けかは分からないが、高屋敷が閉じていた口をまた開く。

「怒ってるの?」
「何をですか?」

高屋敷の問い掛けに、安西は思いの外優しい声で答えた。

「僕が大人になったから」
「…君が、大人になったから、私は怒っているのかと?」

確かめる様にゆっくりと、主語を明確に安西は問いを繰り返す。高屋敷はそれに答えを求めていなかったのか、首を振り、同じ様にゆっくりと、しかしお互いに言い聞かせるが如く話し出す。

「仕方ないんだよ。いつまでも一緒にいる訳にはいかないんだよ、解るでしょ?」

子供を説き伏せる穏やかな口調で囁いた。その言葉は至極最もであるし、全く大人の意見だった。だのに惜しむべらくは、高屋敷が自分の言葉に迷う顔をしていたことで、説得力は殆ど無い。そして、後に続けられた言葉は更に放心して力の無い、悲しそうなものだった。

「…解ってくれてるから…そうやって、どっかに行ってくれてるんでしょう?」

安西の口がもの言いたげに開き、また閉じる。高屋敷は哀しげな顔のまま、ぼそぼそと呟いていた。

「どこかに行きたい訳じゃないんでしょ、無理してるのも知ってるよ。気を遣わせて悪いとは思ってる…でも、僕だっていつまでもあのままじゃいられなかったんだ。だから」
「高屋敷君」

硬く冷たい張り詰めた声。呼ばれた高屋敷は口を閉じて上向いた。

「私は…どうあっても君の枷でしかないのでしょうか」

普段の嘲弄を滲ませた声からは思いも付かない震え声。たなびく様に伸ばした腕が、見開かれた高屋敷の目を覆おうと、ゆっくりゆっくり近付いてくる。冷たい指先が風に揺れる前髪に触れ、高屋敷の視界は大半遮られていく。

「子供時代に縛り付けようとする、目障りな、邪魔な、過去から逃がそうとしない悪夢ですか?もしそうならば…」

殆ど射さない光に高屋敷は尚も目を凝らし、何かを推し量るように瞬いて、そして真意の端に気付いたのか安西の手の下で眉根を寄せる。知ってか知らずか、それと同時に安西は最後の言葉を呟いた。


「君が、私の事を忘れるように…」


全てが暗くなる直前に、幼い頃と変わらない、高くて細い悲鳴が上がる。跳ね除けられた腕と飛び退り過ぎて縺れた足。驚いて見やる安西に、高屋敷は汚れた屋上の床に尻餅をついたまま

「邪魔だなんて思ったことない!傍にいなくていいから、消えないで」

べそをかきながらそう言った。安西は呆気に取られた様な顔をしたけれど、すぐに笑って屈み込み、高屋敷の両脇に腕を差し入れ抱き上げた。ズボンの埃を払ってやってから、薄笑いを浮かべたまま向き直って柵へと向かい、錆びた鉄骨に手を突き空を見上げだす。その後ろで高屋敷は少し恥ずかしそうに俯いて暫く口をへの字に曲げていたが、直に安西の隣で柵を握り締めた。不機嫌な顔のまま真っ直ぐ前を見詰める高屋敷と笑って宙を仰ぐ安西は、暫く黙ってそうしていたが、安西がのんびり話し出す。


「高屋敷君が面倒見てくれるなら、お爺ちゃんになりますかねぇ」
「馬鹿じゃないの、絶対面倒見ないから」
「そう言わずに」
「やだね」
「年取りますから」
「やだ」

高屋敷は自分がまた泣きそうになっていることに気付いて、そろそろ仕事に戻らないとと聞こえるように独り言を言う。ああそうですかと安西が言ったから、引っ込みの付かなくなった高屋敷は本当はまだ行きたくなかったけれど、泣かないうちに踵を返して螺旋階段に歩み寄る。けれども後ろから呼び止める声がしたから、立ち止まって振り返った。

「お仕事頑張って下さいね高屋敷君。では私は、また君に心配を掛ける放浪の旅に出て来ます。でも君の次の誕生日には帰ってきますよ。三十路のお祝いを持って、ね」

そう言って安西は身を翻し、片手を添えた柵を飛び越え空に身を踊らせ消えた。高屋敷はゆっくり柵に近づいて、前を見て、上を見て、右を見て、左を見て、最後に下を見て何処にも安西がいないことを確認すると、柵に乗せた腕を組み、その上に顎を乗せ目を閉じて呟いた。

「いんだけどさ、せめて住所決めて欲しいんだよね。毎年年賀状の時困るんだから!」
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